孤独の是非

ここ一週間両親が帰省しているのですが、もう寂しくなってきて、一人暮らししてたときより人間強度が下がったなぁと感じます。


今でこそ僕は人と繋がる喜びを知っていますが、子供の頃家庭環境アレだったし、本音を言える友達恋人、ネット友すら居なく、ただひたすらに苦しみに耐え、自分と向き合ってきました。辛いときは群れるのではなく一人の趣味(読書など)に入り浸っていました。
そんな経験が今の強固な自我を作ってきたわけですが、それもちょっとつながりが日常的になると、人間はあっというまに弱くなってしまうようです。トーヨコキッズが界隈に行くのも、推しという文化も、結局人間は群れていないと不安で不安でしょうがないのでしょう。
でもヒトという生物の歴史を考えると群れていることが通常で、それに幸せを感じる生き物です。しかし生きていくうえで一人で解決しないといけないことは必ずありますし、離別による孤独もありえます。
 
であるとするならば、孤独に弱くなることを甘んじて受け止め、今の群れを楽しむこと。孤独に備え、群れから一定の距離を置いていくこと。果たしてどちらが正しいのでしょうか。
まあ僕は自分の家庭を持ったことはないので、その時が来るとすれば考えも変わるのかもしれませんが。
 

は呪われる

笑わないと同じくサブタイトルがなく、類似点が多い。


歪曲王と同じくその時点では普通の人が(逃げだしたようで其の実敵に立ち向かい)敵を倒すキーパーソンになったり。木下君ね。
時系列がシリーズ他作と比べてバラバラ度が高かったたり。
霧間凪が首を狙われたり。


あと竹田君は結構この世界の人間の理想像かもしれない。
進学校にありながら進学せず夢を追い、普通にとらわれていない。
世界の裏を知らず、無力だけどそれでも生きる。
宮下(ブギーポップ)が好きなだけはある。この二人の関係はどうでもいいように描かれているようでいて意味はあるのかも。
だから上遠野先生が理想としている若者も竹田君なのかも。


そして初めて?百合子さん再登場。彼女は殆ど意味もなく殺された人間だけど、ここで登場したことで意味が生まれた?のかな。

ここに近況報告を

2024年1月15日:ホスト体験に行く。卓で接客したわけではないが、ホストの先輩方とお喋りして楽しかった。ゲイバー行ったときの写真見せたら爆笑してた笑

 

2月下旬:トーヨコ界隈民と通話する。想像以上に闇が深かった。

 

3月:社員での就職を諦めて教育のバイトにつく

 

世界に一つだけの花』の「NO.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one」 って歌詞ベタだけどいいよね。

『らいおんハート』の「泣いたらやっぱりね、涙するんだね」はなんかサイコパスみを感じる。(笑)

以前5chに書いたもの

高校で鬱病になって受験浪人してた4年前、初めてブギーポップ読んで躁転したことがある。
あの経験は凄かった。自分が超自然超科学的なものと繋がってる感覚があったし、自分の意志次第で人生も世の中もどうとでも変えられる気がした。正に「突破」って感じやったな(笑)
実際歪みが出てくる躁後半まではなんでも上手くいったし。人生前向きに取り組めばなんとかなるっていう意識は、躁がなくなって精神病が寛解してからも自分の中に根付いてる。
「君がひとりぼっちであればあるほど、 君は多くの人とつながることのできる才能を持っている」というのもしっくり来た。高校生まで内向的だった自分が、躁になってから街に繰り出して様々な人と人生や人間について語り合うようになった。
ちょうど高校卒業後に夜職やってた同級生と飯行って語り合って、その1か月後夜職辞めたって聞いたときは霧間誠一に手紙送った青年みたいに、自分は言葉によって他人を導くことができるんじゃないかとさえ思えた。
あとMPLSって厨二病精神疾患で進化薬は向精神薬や麻薬、で統和機構は社会の同調圧力の暗喩って解釈してたな。実際厨二病って「イタい」っていう同調圧力によって大人に近づくと消える(殺される)訳でしょ?
二流の社会生活に押さえつけられない厨二病や軽度障害者にクリエイターや天才って一定数いるし、これは社会に大きな影響を与える進化した人類と言える。逆に精神的に歪曲して凶悪犯罪を犯す人もいる。これが世界の敵。犯罪を犯した後に自殺する奴って案外ブギポに殺されてたり(妄想)

他にも刺さった名言は多いけど、躁でなくなってしまった今では至って普通の人生を送っているし、正直自分でもイタい妄想だったようにしか思えない。「人間が“これは絶対に正しい”と思っているとき、ほとんどの場合その事実は 既に過去のものになっている」
でも間違いなくこの作品は私の人生を豊かにした。

僕の恩師曰く「箴言集」

上遠野浩平様へ

 

その人の価値が分かるということは、あなたはその人と同等に優れているということだ

 

無知の知(諸説ある)は何よりも大切である。「自分は優れている、賢い」と思った瞬間、人間の成長は止まる。学問や人生・社会経験をどれだけ積んでも己が精進の身であることを忘れてはならない

 

読む知識、観る知識、聞く知識。書く経験、観る経験、話す経験。

知識と経験。この2つほど人生を豊かにするものはない。

 

言葉ってのは呪い(のろい)であり呪い(まじない)なんだよ

 

この世の良いところは、非科学的に良いことはないが、非科学的に悪いこともないということだ

 

常に最悪を想定していれば現実は最高になるだろ?

 

何事にも動じない確固たる自信があれば、見た目なんて大した問題ではないのさ。

まあ人と会うときはちゃんと着飾るけどね

 

人を褒められない人間は自分を褒められない

自分を褒められない人間は人を褒められない

 

完全に他人のせいであることもないが、完全に自分のせいであることもない

 

人の心はだんだん心の痛みに鈍くなっていくが、傷がついていることには変わりがないんだ。

 

自分に対する努力は意味があるが、他人に対する努力は無駄になることの方が多い

 

他人の振り見て我が振り直せっていうけどさ、「我が振り見て他人を正せ」とも言えるんじゃない?

 

生きることとは誰かを、何かを踏みにじっていくこと。だから生きづらい人間はきっと優しい。たとえその優しさが表面化しないものだとしても。

 

痛みを訴えるのではなく忘却させる作品が増えている気がする

 

人の力を借りるのは大切だが、何かを成そうとするのであれば、最終的に信じられるのは自分自身の意思のみである

 

人間は余裕がないと生きられないし、物事の本質より余分を楽しむ傾向にある。

言うなればそう、上映後に映画の批評をしている人間より、単純に「よかったね!」と言っている人間の方が幸せとかそういう話。

 

人間単純なもんで、旨いもん食えば割と幸せな気持ちになれるんだよな。逆に美味しさを感じなくなれば危険なサインと言えるか

 

金の余裕は心の余裕って言うけど、実際真実で、例えばちょっと高いけど食べたいクリスマスチキンがあるとして、それを金銭面を理由に我慢したとする。

その我慢はごく小さなストレスに過ぎないが、そういった小さなストレスの積み重ねが爆発したとき、イライラから人間関係の問題に発展したりするのだ。

 

流行の服着たり、派手に髪染めたり。まあ自由なんだけどさ、自己表現なんて言葉や抽象的なもので十分じゃない?

 

どんなに辛いことがあっても、それがその先の目的のために必要な出来事だと思えれば、大概のことは耐えられるってこと。

 

本を読み、人と話し、働く。

あらゆる事から知を集め、悪を省み善を信じる。言葉は力を持ち始める。

 

調子がいいときってあると思うんだけど、「流れにのっている」と感じた頃には、それはもう過去のものになっている

 

なんでたとえ話なんてのがあるかと言うとね、人間の人生と物理法則ってのは結局のところ同じことだからだよ

 

世の中にはどうしようもなく理不尽なことはある。しかしそれに声をあげて歯向うのは短絡的だろう。 それが解決したところで、別の歪みができるだけだ。 理不尽で不利益を被っていることもあれば、無意識に利益を得ていることもある

まあそんなこんなのせめぎ合いで、世の中良くなったり悪くなったりするので、声をあげること自体はまちがっていないのだが

 

バーとか慣れない場所に行くときはさ、自分を騙すのが大事だよね

自分は常連だ、カッコいい、コミュ力高い。

そういう風に思い込むと割と自然に振る舞えるし、騙している内に本当の自信になったりする

 

自分の身を削ってまで他人の為に何かをする必要はないけど、削らない範囲なら最大限親切にするべきだと思う。それこそ言葉ひとつでも

しかし残念なことに、それができる人間は多くない。

僕は割と真面目に世界平和とか考えたことのある人間なので、世界中の皆がもう少しだけ親切になれば、平和にはならないにせよ世界は段違いに良くなると思うんだけどね

 

自分は人を褒めるのが大好きなんだけど、別に相手の為にという偽善ではなく、シンプルに褒められて喜んでいる人を見ると自分が幸せな気持ちになれるから。

そう考えると言葉って魔法だよね

 

文学は毒である。しかし毒がときに薬となるように、それを克服したときそれはあなたの黄金となる

 

言の葉は最古にして最大の呪いだ。ほら、現代にだってあるでしょ?陰口とか悪口とか

 

寂しくないからこそ、趣味は見つかる、寂しさを趣味で埋めているとすれば、それは趣味ではない。

 

一番の勝者とは、勝ったことにすら気付いていない者だ

 

全ての人間、その他あらゆる物質・生命は互いに「可能性」を影響しあっている

 

血液型による性格診断は日本だけであるそうだ。

逆に言えば、日本でならこれは当てはまる

 

妄想も文章と成せば理論となる(Frederica)

 

羞恥心の為に我慢することほど馬鹿なことはない。過去を振り返らなければ羞恥など何処にもないのだから。

 

成功者は人を傷つけはしないが、自らを成功者だと考えている人間は人を傷つける

 

ときに、過去の詳細を知ろうとすることは、その美しさと幸福を損なう。

 

「普通」は特殊を取り入れられるが、「特殊」は普通にはなれない。だからサクリファイスオブビクターは何時だって特殊なモノである。蟻の理論よろしくそれ単体では役に立たないが、その特殊さから普通の者に可能性を教え与えるのである。

 

物事の黎明期に「それ」はなかったのか、それとも自らがその存在を知らなかっただけであるのか

 

「若いんだからなんとかなる」って言う大人は自己実現のハードルを下げてるから「なんとかなった」と妥協してるだけであり、若い頃の頑張りが後の人生に於いて重要なのは間違いないんだよな

 

神は存在するから存在感を持つのか(人々は信じるのか)、存在感を持つと存在し始めるのか?

〈神の実在と信心:クトゥルフ神話の流行によせて〉

 

自我の矛盾は、解消しようともがくほど極まっていく。

されど矛盾からこそ得られるモノも在る訳で

 

自分は哲学に興味を持ったことがあるが、長続きしなかった。なぜならば、あれは「哲学学」であるからだ。過去や論理に学ぶのではなく、自身の経験や感覚によって組み立てる人生哲学が好きだ

 

俺の血の繋がってるほうの父親は人を見る目があるほうだった。嘘は100%バレたし、人の触れられたくないが核心的な真実をみごとに探り出すことのできる人だった。

 

確信をもって語る人間と、それに納得してしまう人間。たとえそれが勘違いだったとしても、この両者が存在するならば、それはもはや真実ではなかろうか

 

あなたの作品は僕の人生のターニングポイントたる素晴らしい作品だが、彼と決定的に違うのは、僕は言葉や意志というものの可能性を無限大に信じているということだ

 

知恵や言葉って凄く強いんだけど、ときに単純な暴力に屈することもあるわけで

 

強い人間って1人で頑張れる人ではなくて、依存せず薄く広く人を頼れる人間だと思うんよね

 

どんな偉大な文豪も、名言も、必ず誰かの影響を受けたもの。故に自分の意見や知識を持っていることが優れている訳ではなく、影響下にあることを自覚した上で、自分なりに咀嚼して語れるかこそが重要である。

 

頭いいのにふざけてる人間ってのはさ、現実が見えすぎて鬱になるから対症療法としておどけてるんだよ

 

鬱展開のある作品だから得られる栄養ってのはあるんだけど、楽しいことだけ考えて生きていきたいひねりのない大人になってしまったんやなって

 

旅の恥はかき捨て、旅先じゃねぇけど人生まあ旅みたいなもんで

 

鋭い感覚を以て社会を俯瞰的に見るだけでなく、人の心の機敏や人生観とかそういう学問的でないものにも敏い人間に憧れたんだよな

 

傍若無人も突き詰めればカリスマとなる。危険なのはそれが個人に向けた攻撃性を持つ場合である。そして何よりの問題は、刺激を求めてそれを容認する社会なのかもしれない

 

無恥なわけではなく常識を知った上で自然にふるまう。常識的に振る舞うべきときはそうあるが、名も知れぬ通りがかりの人々に対して世間体を取り繕う必要はない

 

色々な人やモノを観て思索しても、それを己の生に役立てられないんだなぁこれが。

 

超常現象やUFOのようなオカルトはともかく、「病気を気合いで治す」「千里眼」「第六感」のような肉体や脳の潜在能力の発現である「超能力」には興味がある。

「原子の発見」や「天動説崩壊」が示すように、これらが数世紀後、科学的に実証される可能性は十分にあるからだ

 

凡人、天才、秀才、そして評価されない天才

 

強い人間なんていない、弱さもまた、貴方の大事な一部分

 

成功はいい、ただ自分を過信しすぎるなよ?

 

悪いことをしないと幸せになれないとして、人はそれを行うか否か。

 

陰陽大極此れ則ち両義

女性にも男性らしさが、男性にも女性らしさが元来備わっている、このバランスを崩すと人は「間違え」る。

陰陽道は哲学に通ずるものであるのではないだろうか

(すんませんパンピーの意見です)

 

悪意に敏感であるのが身のためだ

 

未来は今だって怖いさ、でも、未来を恐れてちゃぁ現在(いま)がちっとも楽しくなくなっちまう

 

佳き人となりたくば、佳い人をよく観察することだ

 

善人が嫌いな人は善に対する劣等感、悪人が嫌いな人は自分の悪を解放できないことに対する劣等感に因る。

本当に優れた人には、「好き」か「無関心」しかない。たぶん

 

肉体は枷であり、繋ぎ止める杭でもある

 

狂気に抗うためには何が必要か?圧倒的な自我だ。

 

辛いときは弱音を吐いたっていいんだよ

 

悩む時間を奪ってはいけない

 

自分がイカれてる事を隠すのが良い時もあるし、悪いときもある

 

好かれたい人には自分を出せ、嫌われたくない人には合わせろ

 

何でも解る気がして何も判らない

 

人間の能力の可能性は無限大に広がっている、ただしそれが善と見なされるか、悪と見なされるかはその場、時代次第だ。

 

知らないことがあるほうが人生は楽しい

 

現在は真実である。しかし、だからといって過去が偽物な訳ではない、過去の私達にとっては過去もまた真実であったのだ

 

「悩む」ことって凄く体力を使うんだ、だから体力のある若いうちによく悩むといい

 

まあ若さって傲慢と同義なんだけどさ、やらない後悔よりやった失敗こそ価値があるんじゃないのかね

 

Twitterによる人間関係ってコミュニケーションの進化なのか?退化なのか?難しいな

 

文章と会話でキャラが変わる人って多いけど、コミュニケーションとしてはそれが最善なんだよね。「表裏のある人」って悪口みたいに言われるけど、むしろ裏表がないと円滑なコミュニケーションができないし、そも二面性がない人間なんてまず居ない

 

全力で自を通すことは、互いの削り合いにしかならない。残念ながら、私達は他人を完全に理解することはできない、だって自分のことすら100%解っている訳じゃないからね

 

間違えてはいけない世の中なんて生きづらいことこの上ない

何故人は間違えるか?成長するからだ

 

小説の中のキャラクターってのは作家の人格の一部なんだよ

だから気分屋な作家ほど魅力的なキャラクターを作れる(たぶん)

 

でもやっぱり意志が重要なんだよ。善人であろうとすればどんな人間でも善を成せる。他人を傷つけないこと、自分を傷つけないこと

 

天才を目指すなら、己の危険性をよく理解しておくことだ、さもないと、狂人と言われたり、周りを巻き込んで自滅する。

 

何も難しい本を読む必要はない、自分が欲しい知識を求めるのが一番だ

 

子が真に大人になるとき、親は老人になる

 

若い頃の思いを書き留めておかないと、自分が老いたとき若者が解らなくなる。

 

知識は独占するものではない、分ち合うものだ。

 

食べたいと思ったときに食べ、飲みたいと思ったときに飲む、こうすると旨い

 

「やるべき」ことはほっといて、「やりたい」ことを思い付いた順にやればいい、若い頃はそれが許されているのだから。

 

魅力的な人間と、魅力的な男女は別ものである

 

自分のことを天才だと思ってない奴は天才ではない。

ただし、自分のことを天才だと思ってる奴が必ずしも天才とは限らない

 

弱者は二種類、善人と悪人

悪人も二種類、強者と弱者

 

知識とはすなわち解放であり、無知とはつまり安寧だ。

 

愛とは食事であり、友情とは娯楽である。

 

考えない人間に罪はない。正当防衛だ。

 

厨二病って可能性の発露なんだよ。世間の目という抑止力に負けて、これを「イタい」とかって自認してしまうと天才は終わる。子供は天才っていうのもそういうこと。

 

神様はいない。あるいは神が人だったと言えるかもしれない。飛びぬけて頭脳が冴えていたり、人の心に敏感であった人間。それが神様の正体ではなかろうか。

よってこの世に救いなんてない。あるとすれば、それは神によって与えられるモノではなく、人の努力によって作り出されるものだ。ひどく現実的に。知らんけど

 

どんなに辛いことがあっても、それがその先の目的のために必要な出来事だと思えれば、大概のことは耐えられるってこと

 

考えすぎて疲れたときは、手段はなんでもいいから頭を空っぽにすることだ。極論、オナって寝ろ。

 

細けぇことは気にするな、それワカチコワカチコ〜

 

無遠慮は駄目だが、遠慮しすぎるのも同じくらい駄目だ

 

 

残念ながら、人生を変えるのに遅すぎることは往々にしてある。しかし自分を変えることに遅すぎることはない。

 

多少図々しくなければチャンスはつかめない、たとえ大恥かいてもチャンスは逃さない

 

喧嘩弱いから暴力を除けばこの世に怖いことも恥ずかしいこともないんですよ

 

自分の推しは自分だろぉぉ?

 

クール系の自分なりの信念を持っているキャラが好きです

 

悪人っぽい悪人より善人面した悪人の方が厄介だったりするよね

面ってのは見た目のことじゃなくて善人に擬態してる奴というか

 

人の人格は顔に出るから見た目10割というのもあながち間違いでなく…

 

1.善い人 2.善いけど社会が悪くて善くなれない人 3.どちらにもなりうる普通の人 4.愚かな悪い人 5.狡猾な悪い人

 

 

--それもまた、運命

奈須きのこが影響を受けた作品「ブギーポップシリーズ」の書評

さて、今回は2019年に新アニメ化され、多くのライトノベル作家に影響を与えたと言われる「ブギーポップシリーズ」に対するざっくばらんな書評?を書いていこうと思う。
 
発刊された1990年代後半はバブル崩壊サリン事件など暗く、家出・売春・薬物等、退廃的な世相を作品に反映させていると言われている。
僕は社会学を学んでいる関係上か、社会の闇・人間の闇に興味があり、よく夜の街に出向くのだが、だからこそ1990年代に興味がある。
 
1990年代の明確な勧善懲悪を描いた「GTO」も俺は好きだけど、ブギーポップはそういうメシア的なものではなくて、暗い世界の中でどうすれば強く生きられるかを説いた作品で、だからこそ当時の悩める青少年に差さったらしい。
僕が鬱のときに読んで影響されたのもその辺。
 
ブギーポップは、奈須きのこ西尾維新以外にも「キノの旅の時雨沢さんなんかも影響受けたらしい。
空の境界」も、直死の魔眼=イナズマ

玄霧皐月=ノトーリアスI.C.E.?

世相も通り魔事件、藤乃のレイプ、臙条の家出と喧嘩、白純とそれを売人に聞く幹也→薬物。とか。世相の反映も似てる
とあるシリーズとかの学園異能バトルの原初ともネット有識者は書いてた。
 
とまあ結構な影響力で発刊当初は売れたんやけど、エンタメ性が薄くて後続の作品に埋もれていった作家でもある。最初のアニメ作の「ブギーポップファントム」とかすげぇわかりずらかったし。再アニメ化されたときも正直話題にならなかった。僕は凄く楽しめたけどね。
僕がブギーポップを知ったのも「空の境界を読んでから奈須が影響を受けたと知って読み始めたし。
影響を受けた人をどんどん辿って作品を読んでいくのは楽しいよね
 
上遠野自身は荒木のファンでジョジョと同じく洋楽のタイトルが設定に反映されがち
外伝の「恥知らずのパープルヘイズ」を上遠野が書いてるくらい。
 
  • 個人的に刺さったのは「ペパーミントの魔術師」までだけど、パニックキュートと呪われるが面白いと聞いたのでそのうち読みます。

追記:「ディジーがリジーを想うとき」を読んだ。

イマジネーターがどんな敵であったかは殆ど明らかにされていないが、関連する話はとても心惹かれる。 水乃星透子という存在はまさしく読者の中でも特別な意味を持ち、「突破」することに一番近い存在であったのだろう

もっとわかりやすく言えば、我々読者の人生観に大きく影響を及ぼしているということ。

ブギーポップって名言?みたいなのが好きなんだけど、やっぱり上遠野先生は小説の方を読んでもらいたいのかな?霧間誠一みたいに

 

追記:5年ぶりくらいに読んだけどやっぱ面白いね

 

僕は1990年代にはまだ生まれてないんですが、1990年代を知っている方に是非どんなのだったか教えてもらいたいですね!

人が孤独を埋め、生の意味を得るためには理解者が必要だ。だが、真の理解者を限られた時間でこの広い世界のなかで見つけることは不可能に近い。故に人はそれを「愛」で満たそうとする。多くの場合、人は肉親から最初の愛を受ける。無条件かつ無償の愛、これが子を「人」へと育て、子は親となり新たな愛を育む。だが、この「愛」を与えられられなかった者、歪んだ愛を受けてしまう者もいる。ただ、この二者に対しても一応の救済措置はある。二つ目の「愛」、他人への愛。異性愛あるいは同性愛によって、愛を知らぬ子が「人」となる可能性だ。(勿論、マッチングが悪いと共依存になるという落とし穴があるのだが)であるとするならば、他人への愛とはいったいなにであろうか。生物にインサートされた本能以外のなにものかであるというのならば、果たして「愛」とはどのような概念だろうか。もし私がこの先「愛」を与える側に立ったとき、私はこれについて説明することができるであろうか。未来の私に説明を求む。

 

わたしは好きで哲学するが、問題なのは哲学を学ぶことに全くときめかないことだ。